初めて経験した地震の記憶と、その後の備えについて

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「大阪北部地震」から約1ヶ月が経過。

警戒していた大きな余震は、いまのところ発生していません。規模の小さい余震が時々発生していますが、私の住んでいる地域では被害が無かったこともあって、以前と何ら変わらない日々を送っています。

私が大きな地震を経験したのは、今回で2度目。初めての大きな地震は、1995年1月17日の「阪神・淡路大震災」です。

当時は「(私の中では)近畿圏では大きな地震は起こらない」と思い込んでいたこと、就寝時だったことで、地震発生時は「何が起こったのかわからない」という状態でした。

「大阪北部地震」で久しぶりに地震の恐怖を感じたこともあり、せっかくなので当時の地震の体験も記録しておこうと思います。

「大阪北部地震」についての記事はこちら↓

「大阪北部地震」を経験して

久しぶりに地震に遭って、改めて考えた防災のこと



初めての大地震

◆就寝中に起こった激しい揺れ

「阪神・淡路大震災」が発生したのは真冬の早朝、5時46分。

私はぐっすり夢の中。父はちょうど出勤しようと準備していて、母も父を見送るために起きていました。

地震に気づいたのは、父が先でした。

「地震だ!しかも大きい!」と感じ、寝ている私と弟を起こしに向かいました。母も、父と同じく私と弟の寝ている部屋へ。しかし、父が部屋の戸を開けたその時、立っていられないくらいの激しい揺れに見舞われました。父も母も身動きが取れなくなり、私と弟に危険を知らせることができませんでした。

一方私は、半分夢を見ながら、遠くから「…ダン!ダン!ダン!」と何か爆発でも起こっているかのような、激しい音が近づいてくるのが聞こえていました。

本当に遠くから近づいてくる音だったのか、寝ていた耳の感覚が徐々に起きて聞こえるようになったからなのか、どちらかわかりません。とにかく、何か激しい音が遠くから近づいてきたのです。

当時私は、2階建ての「文化住宅(数件でひとつの建物になっている和風アパートのような集合住宅)」の1階に住んでいました。真上の2階には男兄弟が住んでいて、よく夜にドタバタ走り回って、うるさくてなかなか寝付けないことがありました。古い作りの建物だったので天井の板が薄く、走り回る震動や音、はしゃぐ声が1階にもろに伝わってくるのです。

私は、聞こえてきた激しい音は「2階が騒いでいる音」だと思いました。よく考えると騒いでいるどころではないくらい激しい音だったのですが、まだ半分夢の中にいる頭では、それくらいしか音の原因を考えることができませんでした。

「またか…うるさいなぁ…」と思った次の瞬間、トランポリンに乗せられたのかと思うくらいの激しい縦揺れが起こっていました。

私はベッドではなく布団で寝ていたので、激しい揺れに「何か変だ(布団が揺れるはずがない)」と思い、起き上がろうとしました。しかし、激しい揺れと意識がまだぼんやりしていたこともあって、起き上がることができなかったのです。

本当なら、そんな激しい揺れに遭えば恐怖を感じるところだったと思います。しかし寝起きの状態ということもあり、激しい揺れが地震だということは全く理解できず(そもそも、大きな地震が起こると思っていなかったということもあって)、「何がなんだかわからない」という感じでした。

揺れを感じてすぐに起きれる人もいるかもしれませんが、私は起きれませんでした。「就寝時に地震に遭っても、正直何も対処できない」くらいに思ってもらったほうが良いと思います。

◆地震発生後の状況

どれくらいの長さ揺れたのかはわかりませんが、意識がはっきりする頃には揺れは収まっていました。

そして、意識がはっきりしてから「今のはもしかして地震だったのか…?」と、呆然となりました。

まさか近畿でこんなに激しい地震が起こるとは思っていなかったので、私は今起こった出来事が夢に思えて仕方なかったのです。

呆然とした状態から、徐々に落ち着いてくると、じわじわと恐怖がやってきました。寝起きで何も対処がでいない状態だったけど、何とか無事だった。でも家が倒壊するようなことになっていたら、訳も分からず死んでいたのかもしれない。何て怖い瞬間だったのだろう…と。

揺れが収まったあと、家族全員、怪我無く無事であることを確認し合いました。

父は外に出て、同じく外に出てきていた近所の人たちと無事を確認し合っていました。

停電

私は激しく揺れながら、部屋の戸を開いて、廊下の光りが逆光になって誰か(父ですが、メガネが無いのと逆光でその時は分からず)が立っていたのを目にしていました

揺れが収まった後、いつの間にか廊下の電気が消えていました。まだ日が昇る前だったので、辺りは真っ暗。停電になってしまったのです。

今まで体験したことがない事態に、不安やら緊張やらでどうして良いかわからなくなっていると、父が冷静にラジオと懐中電灯を出して来ていました。

ラジオからは「かなり大きな地震が発生した」とのニュースが…。

今であれば、スマホですぐにネットで調べたりして(緊急地震速報もありますし)状況を確認できますが、当時の私は「情報=テレビ」だったので、ラジオで状況を確認するというのは全く考えもしませんでした。

母も私と同じ考えだったようですが、普段からよくラジオを聴いていた父は、すぐにラジオで状況を確認しようとしたのです。映像での情報は得られませんが、「停電でも関係なく情報が得られるツール」として、この時私は「ラジオってすごい」と心から感じました。

断水

早朝の寒さもあってトイレに行こうとしましたが、水が流れなくなっていました。停電だけでなく、断水も…。

トイレに関しては、普段から洗濯用に風呂の残り湯を溜めていたので、その時は何とかなりましたが…「このまま水が使えないと、飲み水とかはどうなるんだろう…」と心配に。

この時点では電気も水道も※、いつまで使えないのか分からない状態だったので、とても不安に思ったことを覚えています。

※ガスも止まっていましたが地震直後に使う場面がなかったので、この時は電気と水の心配だけしていました。

見失ったメガネ

私は当時から、寝るとき以外はずっとメガネをかけるくらい、視力が悪いです。

地震があった時、私はメガネを枕元に置かずに学習机(昭和時代の定番、ライトの上に本棚があるタイプのもの)の上に置いていました。地震で部屋のモノがぐちゃぐちゃになるなんて考えたことが無かったので、メガネを枕元に置く習慣はありませんでした。

学習机に置いたメガネは、机に付属の本棚のさらに上に作った「簡易本棚」が崩れたことで行方不明に。

ただでさえ不安な状況で、真っ暗だし、ぼやけているし、とにかく見えない。

この時ほど、見えないことに不安を感じたことはありませんでした。



夜が明けて

家族4人でラジオのニュースを聴きながら、玄関に一番近い部屋(私と弟が寝ていた部屋)でいつでも外へ逃げれるように集まっていました。

とりあえず家は無事だったので、「とにかく、朝が来るまでは家の中でじっとしておこう」となったのです。

停電と夜明け前で、外も家の中も真っ暗。

冬の早朝で冷え込んでいましたが、停電でエアコンは付けられず、石油ストーブはまた地震が来たら危ないので付けられず…上着を着込んで布団をかぶり、寒さをしのいでいました。

そして外がうっすら明るくなってきた頃。

部屋にあったビデオデッキの、デジタル時計が付いていることに気がつきました。電気が復旧したのです。

◆家の状況

電気を付けて部屋の状況を確認すると、色んなモノが落ちたり倒れたりしていました。

私の学習机の上に作った「簡易本棚」は、固定されたものではなく、板を置いただけのものだったので簡単に崩れ、たくさんの本が雪崩落ちていました。

学習机は私が寝ていた足の方向にあったので、落ちた本や板は寝ていた私の膝から下の辺りで散乱していました。

頭の向きが学習机側だったら…怪我するほどではないと思いますが、本が頭に当たっていたかもしれません。

一方両親の寝室では、タンスの上に置いたアイロンがちょうど父の枕元に落ちていました。

早朝の出勤で起きていたために無事でしたが、もし寝ている間のことだったら…当時のアイロンは今よりも結構重い作りです。これが頭に落ちてきたら、間違いなく父は怪我していたと思います。寝ている状態では避けることもできないので、危ないところでした。

食器棚は少し動いていて、中の食器も動いて乱れていました。食器棚が引き戸作りだったために、幸いにも「扉が開いて食器が落ちた」ということはなく、割れた食器はひとつもありませんでした。

その他、テレビが台から落ちたもののテーブルの上に乗ったので無事だったりして、家のモノが壊れたような被害はありませんでした。

家(建物)はどうだったかというと…屋根瓦がいくつか落下していたり、玄関扉の閉まりが悪くなった(歪んだ?)り、壁にヒビが入ったり…と、被害はありましたが、住むには問題ない程度で済みました。見えない部分のダメージがどうだったのかは、わかりませんが…。

◆テレビから流れてきた惨状

電気が復旧して、早速テレビを付けて映し出された映像は、現実とは思えない光景でした。

都会がここまで壊滅的な被害を受けているのを見たことがなかったし、どこか遠くの知らない場所ではなく、よく知っている神戸。あまりのことに絶句してしまいました。

そして、あの激しい揺れを受けて「自分は無事だった。でも、そうじゃない人もいた。」ということに、何とも言えない気持ちになりました。

テレビに映し出されている惨状に、もしかしたら自分がいたかもしれない…そう思わずにはいられませんでした。

◆とりあえず、学校へ

そろそろ登校時間。この状況で学校がいつもどおりあるのか、どうするのか迷っていたところ…

電話で「とりあえず、みんな学校へ行くらしい」と連絡があったので、登校することにしました。

学校へ行くと「余震の危険がある。校内に入らないように」とのことで、みんな校庭に集められていました。クラスメイトの何人かは登校できずにいましたが、みんな怪我も無く、無事とのことでホッとしました。

学校で生徒の無事が確認できたところで、ほどなくしてから解散となりました。



地震のあと

震災当日、あまり時間もかからずに電気も水もガスも復旧しました。

私が当時住んでいた豊中市では震度5強を観測し、墓石が倒れたりする被害があったようですが、新聞やテレビで見た程度。私が住んでいた文化住宅を始め、屋根瓦が落ちた家はいくつかありましたが、「近所の家が倒壊した」「塀が崩れた」といったような大きな被害を受けているのは目にしませんでした。

一方、テレビから流れてくるのは、変わり果てた神戸の街の惨状ばかり。

大した被害が無かった自分の今の生活と、テレビから流れる映像がかけ離れ過ぎて、「近畿圏で大地震が起こった」という実感がありませんでした。

地震からしばらく経ったころ、住んでいた地域の空き地に、いくつか仮設住宅ができたのを見かけました。

震災で家を失った人たちが大勢いて、仮設住宅暮らしをしていることは知っていましたが、それはテレビで見た「情報」でしかありません。

自分の生活圏内に仮設住宅ができたのを見たことで、初めて身近に「震災」を感じました。



地震に対する意識の変化

「阪神・淡路大震災」以前にも全国各地で様々な地震が起きて、被害の状況をニュースを見ていましたが、「地震って怖いな…」と思うだけで終わっていました。

しかし、自分が大きな地震を体験して初めて、地震に対する意識が変わりました。

◆阪神・淡路大震災以前

当時の私の知識は「地震=プレート地震=関東」。テレビでも関東方面の地震が「危ない」とよく言われていた記憶があるので、「じゃあ、近畿は大丈夫なんだ」と思っていました。

正直、学校で行われる地震の避難訓練も、あまり真剣に捉えてはいませんでした。

◆阪神・淡路大震災以降

断層による地震があることを知り、「どこでも地震は起こる」と考えを改めました。

高校の地学の授業で地震について習ったときのこと。

震災後ということもあって「大阪の断層」についての話が出ました。先生が「大阪には、分かっているだけでこれだけの断層がある※」と見せてくれた断層地図は、そこらじゅう断層だらけ…。前回は神戸方面の断層が動いたけど、次はどの断層が動くか分からない。大阪にもたくさん断層があるから、安心はできない…。

※この時に大阪にたくさんの断層があることを知っていたので、「大阪北部地震」が起こったこと自体は不思議には思いませんでした。ただ、南海トラフの方ばかり気にしていたので、断層地震が起こることは予想外でした。

しかし実際に被災しなかったこともあって、地震の恐ろしさは身にしみても、「備える」ということに対しては、まだまだ意識が低い状態。

家具の転倒防止につっぱり棒を付けたり、すぐに持ち出せるところに懐中電灯を置いたりはしましたが、置き場所に少々困る避難袋は震災後しばらくの間しか用意していませんでした。

ちなみに、震災以降「メガネは必ず枕元に置く」と改めて、それは今でも続いています。

◆東日本大震災以降

私は沿岸部に住んでいないので、地震発生に伴う津波の恐ろしさはこの時に初めて知りました。

特に、被災者によるケータイカメラでの津波の映像は、かなり衝撃的なものでした。

地震後の津波で私の記憶に残っているものとして「北海道南西沖地震」があります。

被害が大きかった報道があったので、「地震の後の津波も気をつけないといけないんだ…」ということは感じましたが、この時は津波が押し寄せる映像が無かった(まだケータイカメラが無かったことと夜の地震発生)ため、その恐ろしさはイマイチ分かっていませんでした。

加えて、「東日本大震災」の広域での甚大な被害は、震災に備えることを「もっと日頃から行っていかなくてはいけない」と考えさせられました。

私が実際に震災に備えるために変えたのは、下記のことです。

  • 「今はまだいいか」と思って買わずにいた避難袋セットを、この震災後はすぐに購入
  • 愛猫たちの避難用品の準備
  • 「着の身着のまま」で避難することを想定して、就寝時は「パジャマ」から「パジャマにもできる服(兼部屋着)」に変更
無印良品の防災リーフレット

無印良品の店頭にあった無料リーフレット。(入手は数年前なので、今は配布していないかもしれません)応急処置のやり方や、一週間食料が確保できない時※の乗り切り方などが分かりやすくまとめられているので、「備え」のひとつとして保管しています。

※こちらのリーフレットには“「南海トラフ巨大地震」対策として、国の有識者会議では、被害が広域で支援が届きにくいため「家庭用備蓄を一週間以上確保する」必要があると指摘しています。”との記載があります。

無印良品のサイトに、リーフレット内容の特集ページがありました。

わたしの備え。いつものもしも。

◆大阪北部地震以降

「いつまた地震が起こるか分からない」と、緊張しっぱなしで過ごすのは体に良くないのですが、油断してもいけないような…

とりあえず現在は、地震が起こって家が倒壊することも考えて(あくまで念のため、です)、就寝は1階から2階に変更。さらに就寝時にもモバイルバッテリーと懐中電灯、お財布を備え、もしもの時(避難袋すら持ち出せない場合)に最低限持ち出すものを枕元に置くようにしています。

まだまだ「いつ災害が起こっても大丈夫」というほどの備えではないかもしれませんが、今までの暮らしの中に少しずつでも「備え」を取り入れた暮らしに変えていくことは大切だと感じています。

この記事が防災について考えたり、見直したりする際のきっかけや参考になれば幸いです。



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